オカムラ歯科医院
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2018/10/11 17:13

関ケ原の合戦・大谷吉継陣跡

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『大谷吉継の陣跡』です。

大谷吉継は、石田三成の親友で当初この戦いに反対していましたが、結局西軍に参加しました。


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『大谷吉継の陣跡』からは、中山道を挟んだ向かい側に松尾山の『小早川秀秋の陣跡』みえます。

開戦後東軍の『藤堂・京極隊』と戦っていましたが、予想されていた『小早川隊の裏切り』に備えて配置されていた西軍の脇坂隊などが、小早川隊の東軍参加に呼応して、『大谷隊』に攻めかかってきました。

そうなると衆寡敵せず『大谷隊』は敗れ大谷吉継は自決しました。


(G党)

2018/10/04 17:16

関ケ原の合戦・開戦地

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国指定史跡『関ケ原古戦場』の附指定『開戦地』です。


西軍の宇喜多秀家隊に松平忠吉・井伊直政隊が鉄砲を撃ちかけたことから関ケ原合戦場が始まりました。


松平忠吉は徳川家康の四男で、井伊直政は忠吉の舅であることから、関ケ原が初陣になる忠吉の後見していました、当然両者とも初手柄を立てようと張り切っていたことでしょう。


(G党)

2018/09/28 17:01

関ケ原の合戦・岡山烽火場

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黒田長政、竹中重門の陣跡でもある、国指定史跡『関ケ原古戦場』の附指定『岡山烽火場』です。

黒田長政、竹中重門双方の親である小寺官兵衛、竹中半兵衛は共に羽柴秀吉の織田信長家臣時代の軍師でした。  

小寺官兵衛が一時、敵に捕らえられて行方不明になった時に、寝返ったと勘違いした秀吉に長政を殺すように命じられた半兵衛が、主命に反しかくまっていたことから、黒田長政は竹中家に対し恩義を感じていたことでしょう。


(G党)

2018/09/21 11:34

関ケ原の合戦・石田三成陣跡2

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石田三成陣跡のある笹尾山から主戦場になったあたりを見た写真です。

左の山の麓には徳川家康の陣がある桃配山があり、どちらも関ケ原が一望出来、指揮をとるのに良い場所なのが解ります。


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上の写真より右側を見た写真です、奥から二番目の山が小早川秀秋の陣がある松尾山です、西軍だった小早川秀秋の東軍参加により西軍の敗退が決まりました。


(G党)

2018/09/13 12:29

関ケ原の合戦・石田三成陣跡

続いては西軍の総大将、国指定史跡『関ケ原古戦場』の附指定『石田三成陣跡』です。

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石田三成はAM1:00頃到着して、合戦の決着がついたPM2:00頃までここに布陣していました。


(G党)

2018/09/04 16:52

関ケ原の合戦

国指定史跡『関ケ原古戦場』巡りをして来ました。 

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まずは東軍の総大将『徳川家康最初陣地跡』です、国指定史跡『関ケ原古戦場』の附指定になっています。


因みに、この陣地がある『桃配山』の名は、壬申の乱で大海人皇子(のちの天武天皇がこの地で兵士に桃を配った事に由来するそうです。


『徳川家康最初陣地後』の通り、合戦が始まるAM8:00前のAM6:00頃からAM11:00までここに陣取ったそうです。


(G党)

2018/08/21 17:30

装飾古墳・熊本

今回は鹿児島の旅でしたが、熊本県の人吉市へも行って来ました。

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人吉駅の北側にある国指定史跡大村横穴群です。

6世紀~7世紀に墓として造られました。


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全部で27期あるうちの『11号墳』で穴の入り口に、矢が入った靱(矢を入れる容器)、小刀、円などが彫られています。

このような古墳に模様が描かれていたり、彫られたのを『装飾古墳』といい、全国で600基程ありその内の3割りの187基が熊本にあるそうです。


(G党)

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